黒光りする森の中、生まれたての雪の色をした、まだ幼いこぶたが歩いていた。
 冷たい白い雨が降っていた。雨の雫は、艶のある漆黒の葉の茂みに落ちて、花のつぼみを湿らせ、土に滲みこむ。葉の一枚一枚はこぶたのからだをすっぽり覆い隠せるほどに、大きかった。張り詰めた冷たい空気のなか、地を這う細い蔓は凍って動かなくなった。地面に厚く積もる朽ちた落ち葉は、こぶたが踏むたび沈み込み、その足跡の窪みに白い雨の雫が溜まる。小さなひづめの足跡は、ガラスがはめ込まれたようにそこだけ、蒼く光った。
 こぶたは白い溜め息を漏らし、空を見上げる。暗い空に太陽は無く、雲ひとつ見えない。ただ透き通った黒の、どこまでも果てしなく続くように見える闇がふわりと漂うだけだった。氷の破片のような雨の雫は、どこからともなく闇のなかから現れ、白く星のように瞬いて、落ちてくる。こぶたの前を通り過ぎるほんの一瞬、黒い空から落ちてきた雫は、透明な宝石のようなその瞳を見せる。大きな、哀しみを含んだ雫の瞳には、静かな諦めの色が浮かんでいる。
 こぶたは雫の瞳を見つめ返す。次の瞬間雫のからだは黒い土の上で、砕けてばらばらになる。降り積もった落ち葉の歴史のなかに、いくつもの雫のからだの欠片が、滲み通っていく。こぶたは黙って歩き続ける。
 滴り落ちる粒は、闇が溶けてこぼれてきたものだと、こぶたは知っていた。茂る葉は、その闇の水滴を吸って成長する。この黒い森は、そうして生まれた。黒い森は、闇の結晶。そのなかをこぶたは歩き続ける。黒い闇から生まれた植物は、冷たく湿って、墨色の溜め息をつく。吐き出された吐息は透き通って、消えていく。こぶたがその小さな足で歩むこの世界には、ただ闇だけが存在する。
 けれどもこぶたは、そのなかで、闇ではないものを見つける。それは雨の雫の宝石の瞳が発する光よりも、くっきりと、確かな光だった。こぶたが初めて見る、強い光りかただった。
 こぶたは立ち止まる。こぶたが目にしたのは、月の光だった。この世界の何よりも、甘く美しく輝く光だった。
 しかし、その光はまるで、闇が発する僅かな鈍い光から、生まれ出たようにも見えた。例えば、落ちてくる雫は、どれも僅かの間煌めく。その白い光を、手のひらに受けて、包み込んで、育てる、見えない手があるようだった。あるいは、落ちて砕けた雫の、宝石の瞳を、土に滲みこむ前に拾い上げ、集めて、月に注ぐ誰かの手が、そこにあるようだった。
 またひとつ、雫がこぶたの目の前を落下していく。
 けれど、今まで起きなかったことが起きた。こぶたと目が合った瞬間、雫が声をあげたのだ。

 ―気をつけて。

 ワイングラスを爪で弾いたような、乾いた小さな声だった。誰も知らない独り言のような、雫の警告だった。
 月はますます甘美に、妖しく輝いた。
 雫が言葉を話すのを、こぶたは初めて聞いた。しかしそれは聞いてはいけなかったのだと、直感的に思った。開くことを禁じられた扉を、それと気付かずに開け放してしまったかのような、漠然とした不安が生まれた。
 けれども、黒い森に何も変化はない。何事もなかったかのように、闇は溶けて雫になり、雫は瞬いて土の上で砕ける。黒光りする大きな葉は音もなく揺れ、太陽を浴びたことのないつぼみはうなだれて黒い吐息を漏らす。完全に静止しているように見え、それでいて時は確実に流れている。全てはあるべき正しい場所で正しい動きをする。
 再び、こぶたは歩き始める。こぶたのなかに発生した小さな不安。それは、翡翠のような色をしていた。完全に黒と白だけで構成される、色味を持たないこの世界で、それは唯一の色彩だった。こぶたにとってそれは、初めて出会う、何か新しい特別な感情だった。その青はこぶたのなかにはっきりと刻まれた。こぶたは前に進む。進まなくてはならない。凍えた足で、湿った落ち葉を踏みしめ歩き続ける。後には、点々と蒼いガラスの足跡が残る。
 いつしか、こぶたは輝く月を目指して歩いていた。もしかしたら、はじめからそうだったのかも知れない。ずっと気がつかなかっただけで、本当は、ずっと月に向かって歩いていたのかも知れない。そしてこぶたは、月の光が蒼いことに気付く。真っ黒な土の上の足跡が、闇のなかで蒼く光るのは、月が蒼い光をずっと投げかけていたからなのだ。その月の光の蒼は、こぶたの抱く不安の色とは比べものにならないほど、鮮やかな色をだった。(続く)

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